家族

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映画「ブラック・スワン」

主人公ニナは一流バレエ団に所属するバレリーナ。ニナは母親との関係で抑圧を抱えている。母親はニナが成功するのを望んでいない。いつまでも自分の支配下の「いい子」のニナであることを望んでいる。 ニナはそこから脱出するために、完璧さの実感=死に自らを解き放つ。
映画

映画「ミスティック・リバー」

デイヴは自分が選んだ道を歩いてきたのではない。ただ不可抗力のようにして、ひとつの道を歩いてきたのだ。その道を常に否定しながら。そしてデイヴは破滅した。破滅させられた。 最後のどんでん返しと、見る者に委ねられたようなラスト。人によってそれぞれの物語がそこから始まる。

『彼女は頭が悪いから』

「2016年5月11日、東京大学男子学生5人、強制わいせつで逮捕」 現実に起こった事件に着想を得た書き下ろし小説。あるがままを誰かに受け止めてもらえること。これが傷ついた人間が究極に求めることではないか。ここを通してしか再生はないのではないかと思う。

『謝るなら、いつでもおいで』

2004年、佐世保小六女児同級生殺害事件。12歳の小学6年生が、同級生を、カッターナイフで殺す。現実に起こったことだと信じられなかった。 被害者の父親が、事件後すぐに報道陣の記者会見に応じていたので、とても驚き心配になった。ひどく深く自分を損なってしまうのではと、とても気にかかった。

『八日目の蟬』

 妻子ある人の子を身ごもり中絶した希和子は、男の赤ん坊を連れ出し、4年間の逃亡生活を始める。女たちの共同生活の場でもあったエンジェルホームで2年半過ごし、それから小豆島にわたる。海と、空と、雲と、光と、木と、花とに囲まれたそこでの生活は夢のようだったが、突然終わりを告げる。成長した子は同じように妻子ある人の子を身ごもる。
映画

映画「8月の家族たち」

見終わった後、しばらく腰を上げられないような、ひたすら重たくのしかかるような映画だった。 一方で、確かに現代の家族のある面の典型とも言えるような、すさまじい映画だった。出てくる人、出てくる人、皆が病んでいるような、それでいて、どこにでもいるごく普通の人のような。救いはないけれど、自分の場所で、そうやって生きていくしかない。

『ファーストラヴ』

女子大生による父親殺しというセンセーショナルな事件。父親は高名な画家。なぜ殺されたのか? その家庭では何が起きていたのか? 親との関係で心を病む、生きづらさを抱える、何かしら歪んだ世界を生きざるをえない人生を押しつけられる、この理不尽さに苛立ちと怒りを募らせる。こういう世界をミステリー風にうまく描ききったなと思った。

『愛されなくても別に』

深夜のコンビニで、週6日バイトしている大学生の宮田。殺人犯の父を持つ江永。宮田は江永のところに転がりこんで、女二人の共同生活を始める。宮田も江永も欠落をかかえている。その穴を二人でいることで埋め合える。 「親は選べない。でも捨てることはできる。その勇気がここにある」こういう紹介の文章をみて、読まない選択は私にはない。
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映画「ミリオンダラー・ベイビー」

リングに登場したときの、「青い熊」ビリーの存在感に打ちのめされた。虚無の塊のような、地獄からやってきたような、人を寄せ付けない暗さのすさまじさに引き込まれそうだった。私の記憶のなかでは、かっこいい女になっていた。

『春にして君を離れ』

家庭を維持していく自らの能力を誇り、子どもや夫のことのみを考え、自分のことを考えることもない、謙虚で、奉仕の精神にあふれた人間だと自負しているジョーンが、何もない砂漠に放り出されたとき、どうなるか? 夫のロドニーは、ジョーンを「自分の作りあげた明るい、自信にみちた世界の中で幸せで、安泰な毎日を送り続ければいい」と願う。二人は共に自分を生きる勇気を持てなかった。