カン・ファギル著 小山内園子訳 白水社 2022年
金原ひとみの書評を読むと、どの本も読みたくなる。感性が似ているのかなと、つい思ってしまう。どれも切り抜いて、後で読もうとファイルのなかに眠っている。『大丈夫な人』に関しては、すぐに読みたくなって、図書館で予約した。
期待に違わず。私好みの、背筋が寒くなるような、サスペンス映画を観ているような感じがあった。どこにでもいそうな、普通の人々が織りなす、一見普通の出来事が徐々に、徐々に歪んでいく。社会的に弱い立場にいる人の持つ、もどかしさ、あきらめ、鬱屈感が、悪い状況を打開するのではなく、身を任せ、流されてしまう方向に動いていく。抑圧的な人の前で、自分をまっすぐに立てることができない理不尽さ。自分もそうだなと、強く共感した。
受け身の人間の心の働かせ方が、これでもかと描かれている。
自分を表現できない、黙ってしまう。相手の言うことに、そうなのかもしれないと思ってしまう。自信がない。私はこう思う、私はこうだと言えない。言葉が出てこない。書くことでは表現できる。相手がここにいないから。話すことがストレスになる。
話すことをいつも否定されたという苦い思い。苦さは最近のもので、当時は、そして大人になってからも恐かった。話すことが恐かった。だから常に相手に合わせる。相手が望むことを話してしまう。これがストレスにならないわけがない。
これは今も、基本的には変わらない。役割を身にまとわせないと話せない。年を取ると、仕事という役割もなくなって、人と話すことがしんどくなった。
ストレスにならない人たちがほんの少しだけ存在する。それはたぶん、私に対して肯定的な人だろうと思う。そして、私もたぶんその人たちに対して肯定的だと思う。
私は一般的に他人に対してとても否定的だ。私の育った家族がそうだった。母親は自己愛の塊で、だからなのか他人に対してとても否定的だった。自分の子どもに対してもそうだった。私を含めて子どもたちも他人に対して否定的だ。父親は否定的ではなかった。でも父親は性格がやさしかったので、母親に精神的に支配されていた。父親っ子だった私は辛かった。そして末っ子の私が一番母親に支配された。結果として、私が一番母親を受け継いだ。
私は自分の子どもを育てる過程で、母親が私に何をしたかを、心を蝕まれながら理解した。「自分が親になってはじめて、親のありがたさがわかるね」と友人に言われて、私は逆上した。
息子は他人に対して否定的な人間にはならなかった。息子の父親、離婚した元夫の存在も息子にとっては大きかったのだろうが。私は息子が肯定的な人間に育ってくれて、どれだけ救われたか。息子のなかで、私との葛藤は大きかったろうと思う。私も子どもに対して支配的だったから。それでも私はいつも泣きながら謝っていた。息子は覚えていないかもしれないが。
今は互いにいい距離感で、いい関係にあると思っている。
「支配されていた」、相手に対する憎しみとして、この言葉を使ってきた。今、自分の行動のパターンとして理解できる。そういうことだったのだと。「依存」と「自分で自分をどうしたいのか、わからないという感覚」
書評の最後は、「己を知ることによってのみ、人は弱さを受容し、弱いまま自由になれる」と結ばれている。弱いままで自由になれる、いいな。
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