桐野夏生著 文春文庫 2006年
2003年に単行本が出ている。2004年に読んだ。イメージはくっきり残っているが、個々の出来事などはほとんど忘れていた。
1997年3月に東京渋谷の円山町で起きた「東電OL殺人事件」と呼ばれる実際の事件をモチーフにした小説。初出は「週刊文春」2001年2月1日号~2002年9月12日号。事件後4年で書かれている。被害者は東京電力という一流企業に勤務する39歳のエリート女性で、夜は売春をしていたらしいことで、人権侵害にも近いメディアの報道が続き、被害者の母親による、これ以上娘を貶めないでほしいという手紙が新聞に掲載されたのを覚えている。
小説は、語り手である「わたし」、その妹で怪物的な(と「わたし」が言うところの)美貌の持ち主ユリコ、学業は学年で一番、なんでもそつなくこなし、4人のなかで唯一やさしさを感じさせるミツル、そして父親のマインドコントロール下にあると、「わたし」がみている和恵を中心に展開する。
Q女子高は小、中、高校と続く名門大学の付属校で、選りすぐりの家庭の子どもたちが集う。小、中は男女共学で、高校は男女別学。中学、高校と外部生を受け入れているが、内部生との間にヒエラルキーがある。
ミツルは中学から、「わたし」と和恵は高校からの外部生。ユリコは1学年下で、帰国子女枠で高校に入る。Q女子高での隠微な、あるいはあからさまないじめの実態。4人それぞれの個性的なたたずまいが描かれる。
Q女子高でのハイソックスの刺繍の件は、強烈でよく覚えていた。ミツルがそれを救ったこと、和恵が特に感謝もしなかったというディテールは覚えていなかった。
時を経て大人になった4人。「わたし」は役所の非正規職員で、ユリコは売春で高校を退学したあと、モデルから高級娼婦、売春婦という経歴をたどり、最後は街娼となる。ミツルは医学部に入り医者となり、カルト教団に入って信徒を殺め、服役し出所した。和恵は一流企業に入り、出向し戻り、名ばかりの管理職となり、夜の街に立つようになった。円山町に立って、「私は美しい」と天地に向かって叫んでいるイメージがあったが、文庫版にはなかった。文庫にする際書き直したのかと思って単行本を確認したが、やっぱりなかった。なぜ、こんなイメージをもったのだろう。
そして、ユリコと和恵は、チャンという、中国で生死の境界を生きてうかがい知れないほどのすさまじい経歴を持つ男に殺された(和恵については否認している)。
「わたし」、ユリコ、和恵は、それぞれに対してとても辛辣で共感のかけらもない。
ユリコは、「姉は、自分本位。意地悪な観察眼。分厚い防御壁。私は幼い時から、姉の視線に晒され続けてきた。姉はいつも私を見張り、することなすことすべてに口出しし、私を支配しようとした」と日記に綴っている。そして、「私は他人と一緒の時は主体性を押し潰す訓練をとっくに始めていたのだ。まるで玩具の人形のような私を、誰が心の底から大事に思ってくれるというのだろうか」「私は誰も拒まなかった。私の意志は心の中にしかない。それは決して外に出ない」とも書いている。
「私の意志は心の中にしかない。それは決して外に出ない」というところが、やはり姉に支配されてきたと思っている私は、「私もそうなのだ」と苦い気持ちで思う。桐野夏生は、人に支配されたことはないだろうが、それでもこういう気持ちが書けるのがすごいなと思う。
「わたし」は和恵のことを、「この厳しい現実というものに対して、無知で、無神経で、無防備で、無策」だと言い、蔑みながらも、「父親の強い意志に染まった者は、その価値基準が正しいと思って生きていけるから」ある意味では羨ましいとも思っている。和恵のことも我がことのように感じられる。マインドコントロールされたのが父親からではなかったが。
ある件に関して、「あなたにまで馬鹿にされるのかと思ったら悔しい」と和恵が憤然とした様子で言い捨てた時、「わたし」は「和恵に蔑まれていたのだと気付きました」とある。こういうシチュエーションはどこにでもあるが、恐らくこういう経験をする人としない人はくっきり分かれているだろう。
高校生の時、人を傷付けるようなことを決して言わなかったミツルは出所して、まだ世の中に適応するのが難しかった時、「あたしは、相手の気持ちを忖度して遠慮する癖をもうやめた」と言い、「わたし」に対して、「悪意が迸(ほとばし)った顔になった」と言う。そして、「何ものとも対峙していないから」だと。私自身の胸に突き刺さる。
ミツルは、私たち(ミツル、「わたし」、和恵)は、「皆で虚しいことに心を囚われていた。他人からどう見られるかっていうことに。三人ともマインドコントロールされていたのかもしれない」と、「わたし」に告げて、Q女子高の元教師と結婚し、人里離れた山の奥に入っていく。
「わたし」は、自分のことを、「常に負ける存在である自分を、勝負から下りてしまうように仕向けた」のだと回想する。
ユリコの子どものユリオは、娼婦たちのことを偉い人たちに思えると言う。「世の中とディープに関わったから」と。そして「わたし」に対して、「自分ではなにもしないのに、高みに立ってものを言っている感じに腹が立つ」と批判する。
最後、極端に飛躍して、ある種コメディみたいにも感じたが、ユリオと「わたし」は、和恵とユリコが立っていた円山町に街娼として立つ。
「わたし」は、ユリコと和恵に、「危険な男がうようよいる世間の海を渡り、泳ぎ切った、彼岸に」と、敬意を持つ。そして、「憎しみも混乱もすべてを背負って船出いたしましょう。わたしも怖れずに参ります。まあ、わたしの勇気を称えて、あちらで、ユリコと和恵が手を振っているではありませんか」で終わる。
斎藤美奈子は解説で、「『グロテスク』の女たちは、みなそれぞれの論理で戦い続けています。あえていえば「世間の論理」に対してです。無限に張り巡らされた差別構造に対してといってもいいし、競争原理に貫かれた男社会の掟に対してといっていいかもしれません」そして、「ミツルが言うように、Q学園で学ばされたのは日本を支配している価値観」で、「出自、貧富、美醜、頭脳、センス、ありとあらゆる選別の罠が張り巡らされたQ女子高は社会の縮図です」と書いている。
佐野眞一は『東電OL殺人事件』で、「堕落する道すじのあまりのいちずさに、聖性さえ帯びた怪物的純粋さにいい知れぬほど胸がふるえる」「魂を深く病んだ人間にしか、魂を深く病んだ社会は見えない」と言い、「高学歴のキャリアウーマンといわれている女性の関心が高い。人ごととは思えない、といってくる女性もいます」とも書いている。
斎藤美奈子は同じく解説で、「『グロテスク』によって、はじめて私は、事件の被害者が「救われた」と感じた」と書く。「私は美しい」と天地に向かって叫んでいる、私のイメージはここに繋がっていると思った。
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