安田浩一著 講談社 2012年
「在特会」とは
「在日特権を許さない市民の会」(在特会)、日の丸を林立させ、朝鮮の人たちに対して、「出て行け」「殺せ」と大音量で叫びながらデモ行進する姿。吐き気を催すほど嫌悪感を覚える。
京都朝鮮学校、徳島高教組、フジテレビなど、気に入らないところに出かけていっては暴力的な抗議行動を繰り返す集団。既存の右翼団体からも否定される集団。政治性などなく、ヘイトスピーチをまき散らす、ただのうっぷん晴らしの集団…… それでもネットを通して1万人規模の会員がいて、会を支え、街頭行動を支えている。
「在特会」とは、「あなたの隣人」
その在特会を取材した貴重なルポ。
在特会とは何者だと問われ、「あなたの隣人だ」と応える著者。
デモや抗議行動の時は、すさまじい言葉を投げつける彼ら、彼女らもデモが終わると、普通の礼儀正しい若者と変わらないと言う。世間に認められたいという強い欲求を持ち、自分の居場所を持たず、劣等感に苦しみ、社会への憤りを抱えた者たち。
しかし現代は、若者と言わず、中年だって高齢者だって、そういう人たちであふれている。
なぜ、特権など何も持たない、弱者とも言える在日の人たちに怒りの矛先を向けるのか。ネットに書かれているから正しいと、無批判に信じる若者たち。
自分で考えることを放棄している人間たち。若者だけではない。それこそ中年から高齢者まで。
「在特会」に集まる普通の人たち
著者は、在特会に集まる人たちは、あなたや私と変わらない普通の人たちだと言う。ある種の共感も感じると言う。著者が言っていることはよくわかる。
彼らは、私やあなたと同じ、底辺の差別される側の人たちなのだ。それでも差別されていると、決して認めたくない人たちなのではないかとも思う。
「在特会は『生まれた』のではない。私たちが『産み落とした』のだ」と、著者は言う。
糾弾するための取材では、こんなに心をえぐるような本は書けない。「どういう人たちなのか、ただ知りたかった」と、著者は言う。
攻撃性と共感する力
しかし私は、人間には攻撃性を他者に向けることができる人と、自分に向ける人と二通りあるのではないかと思う。
前者は、他者の痛みに共感する力が乏しいか、あるいはないに等しい人たちだと思う。
確かに在特会に集まってくる人たちは、特別な人たちではない、普通の人たちだと思う。ただし普通の人たちでも、攻撃性を他者に向けることができる人たちなのだと思う。
攻撃性はコントロールできるか
どうしたら攻撃性を、他者にも自分にも向けないようにすることができるのだろうか。
攻撃性は、動物の本能だと言われるかもしれない。しかし人間は、本能が壊れた動物だとも言える。
育ちや愛情など環境に恵まれたら、攻撃性をコントロールできる術を身につけることができるかもしれない。
そしてまた、どうしたら攻撃性を全開することに快感を感じる人たちに、他者の存在を認めさせることができるのだろうか。というより、私は、彼らの行為と切り離したところで、彼らの存在を認めているのだろうか。
〈本文、講演より〉
なにかを「奪われた」と感じる人々の憤りは、まだ治まっていない。静かに、そしてじわじわと、ナショナルな「気分」が広がっていく。~日常生活のなかで感じる不安や不満が行きつく場所を探してたどり着いた地平が、たまたま愛国という名の戦場であっただけだ。(p.313)
著者は講演で、「コントロールできない不満・不安・憤りを抱えて、それらの感情を本来は最も特権から離れている人たちに対してぶつける行為そのものが、弱く寂しい人たちの行為であると私は考えています。」と語っている。
また、「私が怖さを感じるのは、在特会の行動そのものよりも、在特会の足もとに、日本人の今を覆っている空気や気分・心情が渦巻いているということです。~日本人一般が持つ心情や皮膚感覚が、外国人差別や排外主義に向いてしまっていないか~真に恐れを持つべきは、在特会ではなく、その足元に地下茎のように広がる日本人の思惑と、正義の名を借りた差別・排外主義の連なりだろうと思います。」と語っている。
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