平野啓一郎著 文藝春秋 2018年
武本里枝は2歳の次男を亡くし、その治療の過程で夫との間に決定的な亀裂を生じ、離婚する。その後父の死を契機に、長男を連れて、宮崎の実家に帰る。実家の文房具店を切り盛りしながら、心の整理がつかない状態で暮らしていた。
そこにスケッチブックや絵の具を買いに、月に1度くらいの割合で、谷口大祐が現れる。どこからか流れてきた、林業に携わる谷口を、地元の人間は胡散臭そうに詮索する。里枝はそのねばりつくような煩わしさが、高校を卒業した後、この地を出ていきたかった最大の理由であったことを思い出す。
谷口の絵は、特別な才能を感じさせるものではないが、見た者に無垢で純真な思いを抱かせる。里枝は、家族との葛藤から家を捨てた過去を持つ谷口の切実さに惹かれ、再婚する。女の子が生まれ、これからも家族4人の生活が続くと思っていた矢先、谷口大祐は伐採現場の事故で、あっけなく死亡する。
短期間に身近な人間を3人も亡くし、心のバランスが崩れそうな里枝に追い打ちをかけるように、夫が谷口大祐ではないと判明する。どうしていいかわからず、離婚の調停を頼んだ弁護士に、自分の夫は一体誰だったのか調べてくれるよう依頼する。
在日3世で、高校生の時、日本に帰化した城戸章良は、里枝の依頼を受け、その解明に尋常ではないほどにのめり込む。東日本大震災後の差別意識やヘイトスピーチの沸騰に、城戸も存在の基底で脅かされていた。それは家庭への微妙な違和感となって、足場を揺さぶられている。妻も浮気をしているらしい。それでも5歳の息子の存在は、何物にも代えがたい。この至福を絶対に手放したくないと思う。2歳の息子を亡くした里枝の悲痛を思う。
谷口大祐は群馬の老舗旅館の次男で、理不尽に長男を尊重し、かわいがる両親との間に軋轢を抱え、生体肝移植の無言の強要をきっかけに家を捨てた。そして戸籍も捨て、別な男として生きていた。
「憎み続けるよりも、更に徹底した憎しみで、無関係になるという決断」をしていた。
城戸は、大祐の昔の恋人に、なぜそんなに大祐の人生にのめり込むのかと聞かれ、「他者の傷の物語に、これこそ自分だ!って感動することでしか慰められない孤独がある」と、答える。
しかし、現実に会った大祐は、城戸が考えていたような人物ではなかった。
精神的荒廃を感じさせた。
大祐の戸籍を手に入れ、谷口大祐として生きたのが、原誠だった。原は、親子3人を殺した死刑囚の息子で、そのためにいじめられ、どこにも居場所を持てず、隠れるようにして暮らしていた。
ある時思い立って、ボクシング・ジムに通い始める。東日本新人王となり、全国チャンピオンも期待されるが、自分の出自を話して、挑戦を止めたいと言う。ジムの会長は、逃げないで戦え、自分の人生と戦えと諭す。
ジムでの兄貴分の男は、次のように語る。
「その日もロードワークに誘ったんですけど、近所の公園まで来たところで、段々、マコトが遅れ始めたんですよ。それで、あれー?と思って振り返ったら、足が止まっちゃってて。……で、ストンと力が抜けたみたいに両膝を着いちゃって、大丈夫か?って近づこうとしたら、そのまま突っ伏して、腹ばいで泣くんですよ。広い公園の真ん中で。地面に顔をこすりつけて、オンオン号泣して。寒ーい、霜が降りそうな時期でしたけど。」
「マコトはチャンピオンになりたかったわけじゃないの。ただ、普通の人間になりたかったんですよ。フツーに、静かーに生きたかったの。誰からも注目されずに、ただ平凡に。」
その後、自殺未遂を起こし、姿を消す。
そして9年後、谷口大祐として、宮崎に現れる。
城戸は、原の人生を追体験するように追いかけながら、
「原誠本人が、肉体を以てこの世界に存在していた時には、それらの過去はただ、消えるに任せられていた。寧ろ積極的に、消したいと思っていたのかもしれない。なぜなら、生きようとしている実体としての彼にとって、過去は重荷であり、足枷だったから。──けれども、その実体が亡くなった今、彼を愛する人が、すべてを愛を以て理解してやれるなら、彼の全体は恢復されるべきではあるまいか。」と、思う。
そして、里枝に伝える。
「亡くなられた原誠さんは、里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に、初めて幸福を知ったのだと思います。彼はその間、本当に幸せだったでしょう。短い時間でしたが、それが、彼の人生のすべてだったと思います。」
「この励ましに満ちた、力強い言葉を聴いた時、里枝は彼が、ただこのことを直接伝えたくて、来てくれたのだろうということを悟った。」
心に残る最後だった。
どんな本を読んでも、それなりに感動したり、刺激を受けたり、興奮したり、共感したり、いろんな気持ちを抱くのだが、この本の最後は、泣きながら読んで、読み終わったあと、心が浄化される気がした。とても温かい、幸せな気持ちに浸れた。
私の狭い読書範囲の中で、こういう感じをこれまでに持ったことがあっただろうかと考えたら、角田光代の『八日目の蟬』を思い出した。
「どうか、あなたの日々がいつも光に満ちあふれていますように」というフレーズを、やっぱり泣きながら読んだような気がする。
斎藤美奈子は、朝日新聞の書評欄で、「ふと霧が晴れるような読後感に救われる」と書いている。
亀山郁夫は、「『ある男』感想」(文学界2018年10月号)で、
「この、恐るべき不寛容な社会で、いかに過去の烙印を免れ、自己の幸福を守りとおすことができるのか。その、悲劇的ながらも一個の希望に満ちたケーススタディとしてこの小説は存在する。」
「「受け入れ」と「許し」の可能性──(原誠と妻の里枝が)経験するつかのまの愛と、その愛の光景の記憶こそが、まさにその回答ではないだろうか。」と書いている。
同じ文学界10月号で、中島京子は、
「胸に抱いた傷の耐えがたい「痛み」のためにXが号泣したというエピソードを、繰り返し繰り返し想像する。」と語る。
そして、次のように書く。
「最終的には「その痛みを、まるで経験したかのように知っている」と感じられる境地に至るのだ。それは、個人の実体験と比しても、けっして弱々しい体験ではないに違いない。体験の力はたしかに大きい。でも、想像の力は、それとは別の大きさがあって、別の強度がある。想像の力は人を変えるし、救う。」
ぜひ、手にとって読んでみてほしい。
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