『戦争は女の顔をしていない』

第二次世界大戦でのソ連の死者は、2000万人。その戦いに、看護師や医師としてだけではなく、兵士としても、100万人を超える女性が従軍した。15歳から30歳だった。40数年後、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチはそれらの女性たち、500人以上から戦争体験の話を聞き、『戦争は女の顔をしていない』にまとめた。

『日本軍兵士』

アジア・太平洋戦争の実態を、徹底的に「兵士の目線」「兵士の立ち位置」からとらえ直す。かつ、兵士たちの置かれた過酷な状況と「帝国陸海軍」の軍事的特性との関連を明らかにする。そこには、「帝国陸海軍」の軍事思想の特質、天皇も含めた戦争指導のあり方、軍隊としての組織的特性の問題も含まれる。

『時間』『審判』

堀田善衛の『時間』と、武田泰淳の『審判』を読んだ。「殺、掠、姦―1937年、南京を占領した日本軍は暴虐のかぎりを尽した」人々はどのように駆り立てられ、どこに、どのように集められ、そしてどのように犯され、どのように殺され、その屍骸は誰が、どのように処理したのか。 

『放蕩記』

「『放蕩記』を、受け容れがたい、これは母親への復讐の書でしかないと断じる人たち」の、「最も理解の妨げになるのは、〈母性という神話〉よりも、〈善なる者の傲慢さ〉、つまり多数の側にいることで自らの正義を疑わない人たちの、想像力の欠如ではなかろうか」

『1★9★3★7 イクミナ』

「記憶の墓をあばく」というすさまじく暗く重たい熱量。目を見開き、見たくないもの、隠れているもの、隠蔽されているものを見ようという意志のほとばしり。負の歴史に対峙するとはこういうことなのかと震撼させられる。「ゲッベルスと私」のポムゼルと対極にある生のかたち。

『彼女は頭が悪いから』

「2016年5月11日、東京大学男子学生5人、強制わいせつで逮捕」 現実に起こった事件に着想を得た書き下ろし小説。あるがままを誰かに受け止めてもらえること。これが傷ついた人間が究極に求めることではないか。ここを通してしか再生はないのではないかと思う。

『謝るなら、いつでもおいで』

2004年、佐世保小六女児同級生殺害事件。12歳の小学6年生が、同級生を、カッターナイフで殺す。現実に起こったことだと信じられなかった。 被害者の父親が、事件後すぐに報道陣の記者会見に応じていたので、とても驚き心配になった。ひどく深く自分を損なってしまうのではと、とても気にかかった。

『わたしを離さないで』

『わたしを離さないで』で、キャシーは、「一本の線のこちら側にわたしとトミーがいて、あちら側にルースがいます。こんなふうにわかれているのは、わたしには悲しいことです」と言う。『闇の子供たち』に関して、永江朗は、「「ここ」と「向こう」に線を引き、「ここ」にとどまる者にはけっして書き得ない」本だと書いている。

『グロテスク』

 1997年3月に東京渋谷の円山町で起きた「東電OL殺人事件」と呼ばれる事件をモチーフにした小説。被害者は一流企業に勤務する39歳のエリート女性で、夜は売春をしていたらしいことで、人権侵害にも近いメディアの報道が続いた。斎藤美奈子は解説で、「『グロテスク』によって、はじめて私は、事件の被害者が「救われた」と感じた」と書いている。

『レイシズムとは何か』

日本型反差別から脱却し、差別する権利・自由を否定する反レイシズム規範を日本社会でどのように打ち立てたらよいかという課題と向き合うための基礎となるレイシズムの入門書。 ブラック・ライブズ・マターは、極めて普遍的な闘争であり、従来の世界の反レイシズム運動や理論を塗り替えるいくつもの画期的な側面をもつ。