『家畜人ヤプー』

 

 沼正三著 角川文庫 1972年

 

 世の中にはこういう本があるのだ。こういう世界に、ファナティックに耽溺する人がいるのだと目を開かされた1冊。価値観の転換をもたらしたともいえる1冊。普通の神経だとなかなか最後まで読み通せないかもしれない。昔の文庫の小さな活字で、650頁もある。延々と続く(サド)マゾの世界、スカトロの世界。魂のきれいな人は最初の数ページで投げ出しそう。

 「書物は読者に選ばれるが、読者もまた書物に選ばれる」「この小説は厳しく読者を選ぶ」

 私は独特な読み方をした。当時はまだ若くて、底に抱えていた歪みやら諸々は自覚していなかった。真面目な優等生の殻の中にいた。私は主人公の瀬部麟一郎は必ず元に戻る、普通の人間に戻ると思いながら読んでいた。信じて疑わなかった。最後まで読んでも戻らないとわかって、呆然としたのかどうかもう忘れたが、自分の常識では計れない世界があるのだという思いに打たれた。

 その世界に引き込まれることはなかったし、自分がそういう性癖をもっていないというのはわかった。人間にはいろんなタイプの人がいて、いろんな嗜癖があっても、それはそれで許されるのだという思いは、私を随分自由にした。少し楽に呼吸ができるような気がした。

 私は密かに強迫神経症の傾向があった。自分の偏執的な性癖を恥ずかしいことで、人に知られたくないと思っていた。だがなんと、世の中には「家畜人ヤプー」のような世界さえあるのだ。その世界に比べたら、私の性癖などかわいいものだと、その時思ったかどうかは忘れたが、たぶん、殻の中に閉じこもった狭い世界が広がったように思う。

 この本に出会う前の私の愛読書は、林尹夫の『わがいのち月明に燃ゆ』と原口統三の『二十歳のエチュード』だった。とくに前者は何度も読んだ。若い頃は引っ越すたびに本はすべて処分していた(後で後悔して、また買った本もあるが)。そのなかで、数冊だけ手放せずにいまだに持っている本がある。前者は、そのなかの1冊。後者は、後でまた買った1冊。

 『わがいのち月明に燃ゆ』は、『家畜人ヤプー』と真逆の世界。林尹夫の真面目さ、誠実さ、真摯さ、濁りや歪みのなさ。戦時下でも曇りがなかった。そして、ちょっとした甘えと楽天性。恐らく私はこちらのほうに共鳴していたのだろう。
 私がまだ無垢だった頃に出会って、愛読して、そして、濁り、歪み、諸々の善き素質を失ってしまっても、捨てきれずに手元に置いている1冊。

 今回、『家畜人ヤプー』を読み返して、日本の古代史以前、記紀の時代、神話の世界に対する強烈な蔑視、冒涜も読み続けた原動力だったのだろうと思った。それと衣食住、生活のすべてを網羅しようとする偏執的な欲望のようなものにも反応していたのかもしれない。

 また、人間の理性を奪う方法、苦痛を歓喜、僥倖に変える方法の言及にも関心がいったのだろう。根本原理は、宗教そのものの原理であり、オーソドックスな方法だと思う。
 今現在のトランプ元大統領に熱狂する人々にも重なるかもしれない。砕かれた自尊心が寛容さのない強い言葉、強い者に磁石のように引き寄せられ、そこに真実と思いたいものを見、自分を委ねることに喜びを見出す。トランプ教という宗教だと考えれば納得がいく。

 

 

 

 

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