渡辺清著 岩波現代文庫 2004年
(評論社 1977年、朝日選書 1983年)
「敗戦後、天皇は責任をとって自決されると信じていた。少なくとも退位されると」
当時の多くの日本人が暗にそう思っていたのか、それとも生きていくのに精一杯で、天皇のことなど考える余裕もなかったのか。
『砕かれた神』の著者、渡辺清は16歳で海軍に志願し、20歳で敗戦をむかえる。激烈と言えるほどの純粋な天皇崇拝者であった。それが筋金入りの天皇否定論者に変わる。その経緯を辿る。
1925年、静岡県富士郡上野村の自作農の次男に生まれる。1941年、高等小学校卒業後の16歳で海兵団に入団。1年後に実践訓練のため艦隊勤務につく。ミッドウェー、珊瑚海、ソロモン、ブーゲンビル、マリアナの海戦に参加。敗色濃い1944年10月のレイテ沖の戦闘で乗っていた戦艦武蔵が撃沈される。デッキの同年兵で生き残ったのは渡辺一人だった。
「ある者は無残な肉の塊となって、ある者は負傷して動けないまま生きて艦とともに沈んでしまった。傾いた旗竿にしがみついて「お母さん、お母さん」と叫ぶ、15、6歳の少年兵たちの声」
下級水兵として1945年8月15日の敗戦を迎える。無条件降伏の詔勅から2週間後、復員。
1週間ほど家にこもって過ごすが、居候の身、いつまでもこもっているわけにもいかず、家の農作業を手伝う。折々の農家の仕事が丁寧に描かれている。労働の強度は軍艦での作業より、農業のほうがはるかに強いという。みずみずしい自然の描写、「ほくほくしたあたたかい土」の匂いが立ちあがってくるようだ。
解説で妻の総子は、「裾野の秋から冬、そして春への自然の移ろいの描写の中に、青年が徐々に感性を取り戻していく様子が読みとれる。生来の、働くことをいとわず、小さき者、弱き者へのやさしさも」と書いている。
『砕かれた神』は、1945年、復員後の9月2日から翌年4月20日までの日録として、32年後の1977年に出版されている。日録の最後で、天皇に「降伏後のアナタには絶望しました。アナタの何もかもが信じられなくなりました。そこでアナタの兵士だったこれまでのつながりを断ちきるために、服役中アナタから受けた金品をお返ししたいと思います」と、詳細な俸給、食費、被服の費用を計算し、下賜品(雀の涙ほどだが)をも金品に換算して、4282円を郵送で返却している。なかなかマニアックな執着心だと感心する。
それから上京し、働きながら学校に通い、就職し、その後結核を患い、入退院を繰り返す。その間、野間宏を中心とする若い労働者や学生たちが開いていた合評会に加わったりもしている。この時期のメモをもとに本書はまとめられた。
骨がらみの皇国少年だった。
家や母への手紙をみると、「どれひとつとってみても「天皇陛下の御為」という文句が出ていないものはない。~ これが、当時のおれの本当の気持ちだったのである。~ 大人の兵隊たちはいざ知らず、少なくともおれたち少年兵のほとんどはそうだったように思う。まだ小学校を出たばかりのおれたちは、何事も天皇のためだという教師の教えをまっ正直に信じていて、それを疑ってみるだけの知恵もまだなかった」
「当時の僕には、戦争で人がこうして死んでいく、自分も何かしなくちゃすまないというあせりのようなものがありました。戦死する人も裏の家のおじさんとか、西隣の兄さんとか、みんな身近な人たちですからね。そういう点で共同体意識の強い農村では、戦争というものをどうしても身近に感じますね」(『私の天皇観』 渡辺清 辺境社)
小学校の教師は、戦意高揚を煽り、満蒙開拓青少年義勇軍や海軍志願兵制度を子どもたちにすすめた。純真な少年たちほど祖国を守るために、天皇陛下のために、と戦場へ馳せ参じていった。『戦争は女の顔をしていない』の少女たちと重なってくる。
艦での訓練は理不尽な暴力に満ちていた。新兵は甲板に整列させられ、固い樫の棍棒(軍人精神注入棒)で尻を強打される。「僕たちの仲間でも航海中海に飛びこんだり、自殺したケースも2、3ありました」(『私の天皇観』)
それでも、天皇陛下の「赤子(せきし)」として、一死をもってその「皇恩」に報いることが兵士の「無上の名誉」だという気持ちは変わらなかった。
敗戦後、天皇は責任をとって自決されると信じていた。少なくとも退位されると。しかし、天皇は責任をとらなかった。退位もしなかった。
9月27日のマッカーサー訪問。二人並んだ写真をみて逆上する。「忠勇なる汝臣民よ、敵米英を撃滅せよ」と言っていた天皇。それを信じて勇敢に戦い死んでいった同年兵。絶対者として信じていた天皇に裏切られた思い。
「僕はすべてを天皇のためだと信じていたのだ。信じたが故に進んで志願までして戦場に赴いたのである。~ それがどうだ。敗戦の責任をとって自決するどころか、いのちからがら復員してみれば、当のご本人はチャッカリ敵の司令官と握手している。~ 厚顔無恥、なんというぬけぬけとした晏如たる居直りであろう。僕は羞恥と屈辱と吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだった」(『私の天皇観』)
自らの名において、兵士を戦地に赴かせ、おびただしい数の兵士を死なせた責任を取るべきではないか。厚顔無恥にも自己保身のためにマッカーサーを訪ねるなど人間として許されるのか…… このような人間を、自分は神と崇めていたのか……
1960年2月、日本戦没学生記念会(わだつみ会)入会。1970年から事務局長として会を担う。
1971年、昭和天皇の欧州訪問では、ベルギーで車に卵を投げつけられ、イギリスでは植樹した苗木を引き抜かれ、オランダでは日章旗を焼かれ、「父を返せ」「この断末魔の声を聞け」などのプラカードを持ったデモの洗礼を受ける。
戦後25年、日本では忘れさられたようにみえる「天皇の戦争責任」も、欧州では未だ生々しく声があげられる。それを受けて、機関誌「わだつみのこえ」は、1971年から1976年、11回にわたって「天皇問題特集」を組む。
西ドイツは国会でナチス戦犯の時効を廃止して「永久訴追」を議決。翻って日本は、A級戦犯が首相になり、処刑された戦犯が7人ともいつのまにか靖国神社に合祀されたり、開戦の最高責任者である天皇にいたっては、責任をとるどころが、記者の問いに、ぬけぬけと「そういう文学的な言葉のアヤについては答えられない」などと開き直る。精神の荒廃としか言いようがない。
こうした状況のなか、1981年、56歳で死去。
天皇の責任を追及することは、ブーメランのように自らにも返ってくる。天皇を絶対者として信じて疑わなかったという自らの責任。それを深く問い続けることが渡辺清の復員後の人生でもあった。
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