『日本軍兵士』

 

  吉田裕著 中公新書 2017年 

 (以下は、ほとんど本の内容のランダムな要約である)

 1941年12月8日に始まり、45年8月15日に終結したアジア・太平洋戦争。戦没者数は日本だけでも軍人・軍属が230万人(日中戦争期を含む)、民間人が80万人、合計310万人に達する。
 日本人の戦没者は1944年以降が9割を占めている。日本政府、軍部、そして昭和天皇を中心にした宮中グループの戦争終結決意が遅れたため、このような悲劇がもたらされた。

 中国軍と中国民衆の死者は1000万人以上、朝鮮の死者が約20万人、フィリピンが約111万人、台湾が約3万人、マレーシア・シンガポールが約10万人、その他、ベトナム、インドネシアなどをあわせて総計で1900万人以上になるという推計もある。

 日本が戦った戦争の最大の犠牲者はアジアの民衆だった。

 戦後77年が経って、戦争の現場を兵士として生きた人の大多数は亡くなってしまった。憲法を改正し、戦争のできる国にすることに抵抗を感じない人がそれだけ増えているということかもしれない。戦争を美化する言説も多い。それに対して眉をひそめる人が圧倒的に少なくなった。こうした世相、風潮に対する危機意識から、この本は書かれている。

 戦場のリアルとはどういうことか。アジア・太平洋戦争の実態、俳人金子兜太が繰り返し強調した「死の現場」とはどういうところだったのかを、徹底的に「兵士の目線」「兵士の立ち位置」からとらえ直されている。かつ、兵士たちの置かれた過酷な状況と「帝国陸海軍」の軍事的特性との関連を明らかにすることにも注力されている。自ずから、「帝国陸海軍」の軍事思想の特質、天皇も含めた戦争指導のあり方、軍隊としての組織的特性の問題も含まれる。

 防衛庁防衛研究所戦史室の『戦史叢書』全102巻や、個人の戦記、回想録などの膨大な資料の山から、所属や戦場の裏付けをとり、引用される生の情報。『戦史叢書』には、第一線で戦った将兵から一方的で恣意的なところがあり、戦場の現実を反映していないという批判が強いが、軍部体制を構成する側からの戦争観が表れているだろう。

 中国大陸での日本軍兵士の残虐さ、インパール作戦撤退時の白骨街道など南方戦線での餓死者の多さ、兵営内部での私的制裁、自殺、教育としての「刺突」など、ある程度のことは、年配者は常識のレベルで知っていることは多い。しかし、若い世代にとっては全く白紙の状態だろう。

 中国大陸での日本軍兵士の残虐さは、『時間』『審判』などでみてきた。

 普通の善良な日本人が中国大陸であのような残虐行為ができたのかについての認識を新たにした。
 現在においても、普通の日本人がヘイト・スピーチをまき散らしている。積極的に加担する人は少ないかもしれないが、黙認というかたちでやりたい放題がまかり通っている。良識的な日本人の力でそれを抑え込むことはできていない。

 戦前の日本は、今の状態のもっとひどい状態だったのかもしれない。公にも中国人、朝鮮人などアジアの人々を蔑視していた。軍国熱や排外熱を煽る面ではマスメディアが大きな役割を果たす。地域社会では、除隊した在郷軍人や帰還兵が残虐行為を正当化する言説で若者を教育。若者たちは入隊する前から中国人に対する蔑視感や軍事至上主義的な価値観、残虐行為を容認する価値観などを自然に身につけていった。

 普通の日本人には残虐行為の下地が出来上がっていたのだ。「罪の意識」など感じる余地はなかったと言えるかもしれない。

 

 餓死者の多さ
 餓死者の多さに関しては、軍部が体制として、食糧を後方から補給せずに、「現地徴発」を基本方針としていたことに根本原因がある。「現地挑発」とは民衆からの略奪である。中国大陸での日本軍兵士の残虐さはこういうところにも由来する。略奪する民家のない南方諸島では兵士たちは飢えに苦しみ、多くの餓死者を出した。

 

 人肉食
 大岡昇平の『野火』でも人肉食が描かれているが、ルソン島においても人肉食があったという。その小グループのリーダーはその場で射殺された。戦争末期のフィリピンやブーゲンビル島などでは、食糧を求めて離隊した兵士を「逃亡兵」として取り扱い、軍法会議の法的手続きを踏まずに射殺しているケースが少なくない。これもまた、日本軍による自国軍兵士に対する違法な殺害である。

 

 戦場での「処置」
 「処置」とは、退却のとき病で動けない者を殺害することをいう。「軍の厳しいおきては、生きて虜囚の辱めを受けずだった。動けない者は、自決でなければ他殺が不文律だった」(兵士の回想より、以下回想)自殺や処置を目撃した兵士たちの数多くの証言が残っている。

 

 私的制裁
 私的制裁については活字やテレビ、映画などで目に触れる機会が多かったのだろうか。書かれている内容はほとんど知っていることが多かった。軍幹部のなかに強い兵士をつくるという理由で、私的制裁を容認、あるいは黙認する傾向が根強かった。
 その結果として、自殺、逃亡、奔敵(敵側への逃亡)が多かったという。

 

 自殺 
 自殺では、浜田知明の「初年兵哀歌」という銅版画が目に焼きついている。
 「体力・気力の尽き果てた若い兵士が苦しみに耐えかね、自ら手榴弾を発火させ、胸に抱いて自殺するのである。肉体は焼けただれ、ほとんど上半身は吹き飛び、見るも無惨な最後である。この宜昌作戦間にこの連隊において三十八名の自殺者を出した」(回想)

 

 教育としての「刺突」訓練
 初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練。1938年末から39年にかけて、騎兵第28連隊長は連隊の将校全員に「初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない。これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示している。

 「まだ実行していない後ろの方で、貧血を起こして倒れた者がいた。さっき食べたばかりのご馳走を、そこらあたりに吐き散らしている者がいた。かろうじて実行しえた者も、いままでの陽気な影がふっ飛んで、顔じゅうの筋肉を固くこわばらせ、声を失ってしまっていた。(中略)ついに、二、三の兵隊は実行できないまま、古参(古参兵のこと)に軽蔑されて、この儀式は終った」(回想)
 初年兵は、こうして非人間的な訓練や戦闘を繰り返すことによって「戦場慣れ」していった。 

 

 「肉攻」
 特攻隊(特別攻撃隊)とは、主として爆弾を搭載した航空機による艦船などに対する体当たり攻撃(航空特攻)を指すが、それ以外にも水上特攻(震洋など)や水中特攻(回天)などがあった。
 「肉攻」とは、「肉迫攻撃」の略で、爆薬を抱いた兵士による体当たり攻撃。
 1944年の「現下の対戦車戦闘について」という、教育総監部一課員名の論説で、日米間の戦力格差が拡大してしまった状況を考慮するならば、火力を主体とする対戦車戦闘はもはや不可能であるとして、今後は「肉攻主体」の対戦車戦闘を提唱。第一線の指揮官の多くから実行可能性に対する疑念や批判が相当あったが、「国家自体が体当たりを必要とする時代にまで進んできている」と反論。
 「肉攻」路線を推進した責任者の一人は、参謀次長後宮淳陸軍大将だった。正規の対戦車戦闘を遂行する国力は、すでに日本にはない、それでも、あくまで戦争を継続するとすれば兵士の生命を犠牲にするしかない、という後宮の論理があらわれている。

 

 覚醒剤ヒロポンの多用
 零戦のパイロット坂井二郎は、栄養剤として葡萄糖を打たれていたのは知っていたが、ヒロポンも一緒に入っていたというのは戦後に知ったと言っている。陸軍でもヒロポンを航空兵、又は第一線兵士の戦力増強剤として、チョコレートなどに加えていたのも事実だという。
 これらについては最近知って、ここまでしていたのかと、暗然となった。

 そして、陸海軍が保有していた大量のヒロポンは、戦後民間に放出された。敗戦直後から1956年頃の時期は「第一次覚せい剤黄金時代」と呼ばれているが、その供給源となったのは陸海軍のヒロポンだった。

 

 本書では、「身体から見た戦争」という章を立て、「兵士の体格・体力の低下」、「栄養不良と排除」、「病む兵士の心」、「被服・装備の劣悪化」など、戦争関連本ではあまり目にすることのない項目も丁寧に分析されている。「兵士の目線」「兵士の立ち位置」からとらえ直すという姿勢が貫かれている。

 「戦場の凄惨な現実を直視する必要がある」と資料を通して、静かに訴えている。

 

 

 

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