つれづれに

 

 2月27日、『1★9★3★7』の国際読書会が開かれた。
 明治大学文学部の4人の女性研究者の主催で、ポーランド、ドイツ、フランス、韓国、中国の若手からベテランの日本文学、日本歴史、日本政治の研究者が参加。会場とズームでの開催で、400人前後が参加したらしい。

 辺見庸『1★9★3★7』を国際的に読む―世界から見た日本における加害の記憶―
〈開催の主旨〉から――
 戦後70年を経て、世界の右傾化が進むなか、日本における戦争の記憶はますます歪められている。もっとも切実に日本の戦争問題に向き合おうとした作品、辺見庸の『1★9★3★7』(2015年)は、その重要性に比してこれまで言及されることが少なすぎた。戦争の記憶といえば、被害の面ばかりが取り上げられ、加害の記憶に関するものが極めて不十分。日本が相手国にもたらした被害の実態、すなわち日本の加害の記憶、責任の問題についても、国民レベルでの共有が必要。より広い読者とともに日本の戦争の現実とその歪んだ記憶を根底から問い直し、新たな出発点を模索するために、各国の日本研究者と『1★9★3★7』を読み直す「国際読書会」を開催。

 「沈黙という現実に裂け目を入れるために読書会を企画」と主催者の挨拶で始まる。
 ランダムに、私の頭に残ったトピックを列挙すると、記憶と歴史、文書に基づく歴史と経験に由来する記憶、集団的記憶、記憶の変化と継承、歴史修正主義、「記憶の暗殺者たち」、歴史と文学、戦争責任、世代間の戦争責任論、過去は現在によって救われなければならない、「わたし」を問う、ひとりびとり性、そして、戦争犯罪と天皇制の問題。
 辺見庸にとって天皇制は一番切実な問題だろうが、日本の若い人にとっても身近には感じられないので、まして海外の若い研究者には茫漠としてつかみどころがないのだろう。議論が深まることはなかった。残念だが、仕方がないだろう。
 全体としては面白く、ユニークな試みで、この本を取りあげてくれたことがうれしい。有意義だったと思う。

 『1★9★3★7』を小説だと言う人がいた。漢字とかなの混ぜ書き、独特のカタカナ表記にこだわる人もいた。辺見自身は、「もっと本質に目を向けろ」という思いかもしれないが、本質は細部に宿るとか、宿らないとか。偏執狂の固まりである私は、こういったマニアックなこだわりを偏愛している。自分のなかの何かがそこに現れてくる気がして。高橋たか子を思想的にはさほど好きではないのに魅かれるのは、何かに対するどろっとしたようなこだわり、偏愛に魅かれるのだろうと思う。

 3時間半の長丁場で、終わったときはぐったり疲れてしまった。ズームで参加したが、私のパソコンは古いのでカメラを内蔵してない。マイクは外付けで取り付けられるが、必要もないのでそのままにしている。それでも参加できるのはありがたいと言えばありがたい。

 

 この半年ほど、毎日長い時間をかけてチェックしていたブログから離れた。まっすぐで、まっとうな世界。そこに集う人々。穏やかで、和やかな居心地の良さ。私の表面はそのような世界に完璧に順応しているのだが、私の内面から異質なもの、自己愛の固まりのようなものが噴き出してくると、途端に居心地の悪さ、疎外感を感じてしまう。(それでも身体になじんだ習慣には愛着が残り、穏やかに、和やかに、そしてまっすぐに、自分を主張できる空間が貴重に思えてきて、また戻ろうかとコロコロ気持ちが動いている。私はそこでただいろんな主張を読んでいるだけなのだが。)
 穏やかさ、和やかさとは真逆の世界が、辛辣な品の悪さが、辺見庸のブログにはある。私の表面はそれが嫌いなのだが、私の内面はどうなのだろう。好んでいるとは決して言えないが、「自らの精神を痛めつけている」という思いが共感を呼ぶのか。

 

 

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