『わたしを離さないで』

 

                

 

 カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 ハヤカワepi文庫 2008年
 (『闇の子供たち』梁石日(ヤン・ソギル)著 幻冬舎文庫 2004年)

 

 大まかな枠組みを知ったうえで読んだ。もし知らなかったら、エミリ先生、マダムとトミー、キャシーの対面の場面は、心が締め付けられるようで、怒りに震えたかもしれない。

 知っている、予備知識があるという状態で読むと、キャシーの淡々とした語り口に流されてしまって、現実の倫理的な問題やら何やら、そっちのほうに気持ちがいってしまう。

 その前提を離れて、キャシーとトミーとルースの関係のほうに心が動いた。
 なぜキャシーとトミーはカップルになれなかったのか? ルースがじゃまをした? キャシーはルースに惹かれていたとあったが、二人はルースに支配されていたのだろうか。キャシーは三人の関係を大切にしていたような書き方だが、トミーはどうなのか? トミーはルースといて楽しそうには見えないのに、なぜトミーはルースを選んだのか? 女性に関しては自分を持っていないのか? ルースにうまく操られていたのか? それはキャシーも一緒かもしれない。

 それが人生を断ち切られているということなのか? どこかで自分の思い通りになどならないと諦めているのか? こういう心の動かし方は、人生が閉じてないと思っている私たちにもよくある。それは自分を強く主張できるかどうかの問題なのか。

 あるいは、この三人の関係は、特にキャシーにとっては、無意識で家族のような繋がりを求めているのか? 

 解説で柴田元幸も、訳者の土屋政雄も、この小説に関しては、予備知識は少なければ少ないほどよい、と言っているので、そして私自身も明らかにそう思ったので、中途半端だが、これ以上は書かないことにする。

 納まりが悪いので、参考になるかと、『闇の子供たち』を読んだ。映画は封切られた時、期待して見てガッカリしたのを覚えている。
 小説もあまり期待しないで読んだ。社会派というより過激な描写の多いエンターテインメントかなと読みすすんだ。最後のヒロインの選択に、まるでオセロゲームのように印象がひっくり返った。
 永江朗の解説でも「驚愕した」とあった。そして、「これを書けるのは梁石日(ヤン・ソギル)しかいない」「「ここ」と「向こう」に線を引き、「ここ」にとどまる者にはけっして書き得ない」と書いている。

 これを読んで、前提になるものは全く違うのだが、『わたしを離さないで』の最後のほうにあった、キャシーとトミーが知ったことをルースとも分かち合いたかったと、キャシーが強く望んでいたところを思い出した。
「ルースが、わたしやトミーと違うままで終わったことが悲しいからです。一本の線のこちら側にわたしとトミーがいて、あちら側にルースがいます。こんなふうに分かれているのは、わたしには悲しいことです」

 

                

 

 

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