『名もなき毒』

                      

 

 宮部みゆき著 文春文庫 2011年
 (経緯、内容の説明あり。要注意)

 

 青酸カリによる無差別連続殺人。四人目の被害者の様子が、序章で語られる。
 本編は、主人公杉村三郎による人物インタビューから始まる。インタビュー相手の黒井次長とは、本題から逸れた「シックハウス症候群」のことで話が弾む。導入に「病んでしまう家」の話。

 杉村三郎は、今多コンツェルン・グループ会長の今多嘉親から娘との結婚の条件として、小さな児童書の出版社を辞め、コンツェルン内の社内報を作る編集部で働くよう要請され、それに従った。
  少し癖のある園田編集長以下、こぢんまりとまとまった、ぬるま湯的な働きやすい編集部に、原田(げんだ)いずみがアルバイトとして加わったところから怒濤のような過酷な試練が始まる。「人間だけがもっている毒」のさまざまなパターンが展開する。

 原田いずみはトラブルメーカーだった。経歴も詐称していた。慣れるにしたがって、ミスを指摘すると、言い返し、手の込んだ言い訳を並べ、そして攻撃的になっていった。編集長と杉村は原田を辞めさせることにする。原田は電話で告げられると、編集室に興奮した状態でやってきて口論となり、セロハンテープの台座を編集長の顔めがけて投げつけた。とっさによけたがかすって、切れて、こぶができた。

 さらに、原田いずみはコーヒーに睡眠薬を入れ、編集部のメンバーに飲ませ、メンバーは病院に担ぎ込まれ、大騒動になる。警察の事情聴取があり、原田いずみは指名手配される。

 原田の父親が娘の事件を知り、編集室に謝罪に訪れる。編集長と杉村が話を聞く。胸が悪くなるような、衝撃的な出来事が語られる。

 兄の結婚披露宴で、原田いずみは「兄から性的虐待を受けていた。今でも受けている」と、満座の中で嘘の暴露をした(かすかな気配のようなものはあったのかもしれない。それは誰も知ることはできない。本人自身の記憶すら曖昧かもしれない)。すさまじく、真実らしくみせるお芝居。自分の作りあげた物語の中に完全に入り込めるのだろう。そして、その物語により真実味を持たせるために細部まで完璧につくりあげる。
 兄の妻となるべき人は、その嘘の毒から逃れることができず、半月ほど後に命を断つ。

 一方、無差別殺人の四人目の被害者古屋明俊の娘暁子と孫娘美知香は、杉村三郎と近づきになる。犯人が自首するが、二人しかやっていないと言う。二番目の事件は、自殺より事故・事件のほうが下りる保険金の額が高くなるからというので、無差別殺人を装った自殺だった。そして、四番目は暁子に嫌疑がかかっていた。美知香はその嫌疑をはらしたい、真犯人を捕まえたいと、杉村に頼る。

 原田いずみは、その後、杉村家に押し入り、一人娘の桃子を人質にとり、立てこもる。
 どうぞ、娘を傷つけないで、何でもするからと、哀願する杉村と妻。
「どうしようかなぁ」さも嬉しげに笑っている原田。
「彼女は心底愉しんでいた。他人を傷つけ、苦しめることを」

 その現場には、古屋明俊さん殺害事件の犯人、外立研治も居合わせる。杉村三郎が気鋭のジャーナリスト秋山省吾とともに、外立が警察に出頭するのに付き添っていた途中の出来事だったのだ。外立研治のある行為が原田いずみ制圧のきっかけとなる。
 原田いずみを制圧したとき、杉村は怒りが爆発する。自分の中の怒りの激しさ、大きさに拮抗するように、原田に対して、激しい暴力を振るわずにおれなかった。

 外立研治は、暗くて、ブラックホールみたいで、世の中の不幸をすべて一人で背負っているような青年だった。両親に見捨てられ、厳しい祖母に育てられた。今は一人で祖母の面倒をみている。外立は、原田のような悪意の持ち主ではない。彼を動かしているのは、そういう種類の邪悪ではない。
 最初は祖母に青酸カリを飲ませようと思っていた。でも、いざとなるとできなかった。「バアちゃんは何も悪いことしてない。これを飲ませなきゃならないのは、バアちゃんじゃない」 怒りは初めて、外に、世間に向けられる。

 原田いずみにも、外立研治にも毒があった。外立はその毒を、外に吐き出すことで消そうとした。だが毒は消えず、ただ不条理に他者の命を奪い、彼の毒はむしろ強くなって、もっとひどく彼を苛んだだけだった。原田いずみの毒は、彼女自身を侵してはいないようで、彼女の毒は無限増殖し、どんなに吐き出しても涸れることはないかのようだ。

 外立研治も、原田いずみも同じ種類の人間で、深くひどく飢えている。「飢えが本人の魂を食い破ってしまわないように、餌を与えねばならない。だから他人を餌にするのだ」と、今多嘉親は言う。
「他人を餌にする」比喩に聞こえなくて、身の毛がよだった。

 なぜ、そんなに飢えているのだろう。
 求めても求めても得られないという経験を積み重ねてきたからではないか。その求めていたものは、愛情ではないか。自分を受け入れてほしいと願う、他者からの愛情ではないか。それが得られなかったとき、誰からも見捨てられていたと無意識が認識するとき、飢えと怒りに覆い尽くされてしまうのではないか。
 それは、原田の、「あたしが受けた傷は偽物で、あたしがつけた傷だけが本物なの? どうしてそうなるのよ」という叫びとなり、他人を傷つけ、苦しめることを心底愉しめるという歪んだ自我を形成してしまうのかもしれない。
 外立研治には、愛情を受けた記憶がかすかにでも身体に刻まれているのかもしれない。それが外立と原田の違いかもしれない。

  「いまという時代をめぐるリアルな負の諸相が手加減なしに描かれた怖い作品だが、生きることへの敬意と信頼に満ちた物語」だと、重松清は書評で語っている。

 

                       

 

 

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