『ねじれた絆』

                         

奧野修司著 文春文庫 2002年

 1977(昭和52)年7月28日、沖縄の新聞「琉球新報」に赤ちゃん取り違えの記事が掲載された。
 「6年間育てたのに……実は他人の子だった 病院が取り違える 双方、実子引き取りへ」

 幼稚園での血液検査で、伊佐美津子の血液型は、親からは生まれるはずのない血液型だと告げられる。再検査の結果も同様で、両親は出産した産院に問いただす。産院は調査の結果、城間初子と取り違えたことが判明する。6年間、実子として育ててきた我が子が他人の子どもだった――このまま育てるのか、実子と交換するのか。両家の親たちは怒り、惑い、思い悩み、最終的に交換することを選ぶ。

 昭和40年代、赤ちゃん取り違え事件が社会問題として新聞で大きく取り上げられていた。自宅出産から施設分娩の急増が背景にあるとも言われている。

 琉球新報の記事を見て、東京の週刊誌が記事にしようと記者を沖縄に派遣する。その記者がこの本の著者奧野修司である。それから17年、両家族を追い続け、インタビューを重ね、「家族とは何か、親子とは何か」を問い続けたのが、ノンフィクション『ねじれた絆』である。文庫版でさらにその後の経緯を綴り、二人の女の子にも6歳から30歳という年月が流れる。

 柳田邦男は文庫版の解説で、「『ねじれた絆』は、赤ちゃん取り違え事件の取材ドキュメントだが、単なる事件のルポあるいはリポートではない。事件そのものよりも、赤ちゃんが取り違えられたことによって二つの家族に生じた問題――とくに親の子どもとの関係と生き方に生じた変化、そして二人の子どもの人生の深刻な曲折という問題に焦点を合わせて、長い年月にわたって見つめてきた家族ドラマの記録なのだ」(p.432)と述べている。

 伊佐家と城間家の両家族の25年。そして美津子と初子(伊佐家に引き取られた時点で真知子と改名)の25年。著者は両家族とも似たような、あまり裕福ではない経済状態にあったと書いているが、二つの家族は全く違う印象を与える。成長して美津子は教養の差だと言っている。
 伊佐家は父重夫、母智子、弟孝一の4人家族。智子を中心とした、躾に厳しい、愛情に恵まれた、普通の家庭にみえる。それに比して城間家は安定した家庭とは言いがたい。父照光、母夏子、美津子の下に3人の妹たちの6人家族。

 伊佐智子は5人の娘とその下に2人の男の子の7人姉弟の4番目。2歳の時、家族は西表島に開拓移民として入植する。マラリヤや台風など「いま生きているのが不思議なくらい」というほどの過酷な自然の中で育つ。歩いて30分の小学校に裸足で通う。飢えと直面している開拓地では、子どもたちも貴重な労働力だったが、父親は教育熱心で智子は高校に行く。父の影響か、後に教育ママと言われるようになる。
 夫の重夫も八重山移民の子で、男2人女4人の長男として生まれる。智子同様開拓移民の子として辛酸をなめる。中学卒業後、職業訓練学校のようなところで重機の運転の訓練を受け、西表島の道路建設工事に携わる。そこで智子と知り合い、互いに好ましく思い、周りからも祝福されて結婚する。2人は沖縄本島に渡り、重夫は建設会社に再就職し、新婚生活を始める。そして智子は妊娠し、昭和46年8月16日に女の子を出産する。

 城間照光は2男1女の末っ子。父親は米軍の艦砲射撃で死亡。母親の手一つで育てられる。中学を卒業すると大阪に集団就職するが、半年あまりでそこを飛び出し、自動車修理工の見習いとして再就職。22歳の時、沖縄に帰って自動車修理工として好待遇で働く。
 夏子は1男3女の末っ子。小さい時から病弱だったせいもあって、兄姉の目から見ても「甘やかされるだけ甘やかされて」育った。中学卒業後、本土に就職したが、1年経たないうちに沖縄に舞い戻った。
 照光は25歳の時、16歳の夏子と知り合う。照光には恋人がいたが、夏子ともズルズルと付き合って妊娠させてしまう。照光は夏子と別れるつもりで母親に打ち明けたが、母親は子どもができたのだから夏子と結婚するようにと強くすすめる。母親自ら夏子の実家に赴いて結婚してくれるように頼む。照光、夏子の結婚は初めから不安定な要素を含んでいた。

 夏子は昭和46年8月18日、智子が出産したのと同じ産院で長女を出産する。その後次々と3人の子どもを産んだが、夫や姑たちの期待に反して、いずれも女の子だった。照光の修理工の賃金も据え置かれたままで、子どもが生まれるたびに生活は逼迫していった。一方で夏子は子どもを産んだ後も独身の時と同じように遊び癖が抜けなかった。夏子は子どもたちを長姉の敏子に預けて遊び歩いていた。敏子は独身で子どもたちの面倒をよくみたので、子どもたちも懐いていた。夏子は「甘やかされた子供がそのまま大人になった」ような母親だった。と言うより母親に成りきれなかったのかもしれない。城間家は「一家団欒とはほど遠い、複雑で奇妙な家庭」だった。

 小学校に入学する前に、美津子と初子(真知子)は、伊佐家と城間家の間で交換された。真知子は次第に伊佐家に馴染んでいく。しかし美津子は城間家に馴染めなかった。その頃城間家では照光と夏子の生活は破綻をきたし、代わりに照光は敏子と関係を深めていく。それを知った時、夏子は照光に対して怒り狂ったが、夏子には女の子しか産めなかったという負い目があった。彼女はますます酒に逃避した。美津子に対して母親として受け止め、慈しむことができなかった。智子は子供を交換して4年ほど経った頃、城間家の内実を知り、「私がいなければ美津子は生きていけないかもしれない。これからも私が母親になったつもりで育てよう」と心の中で誓った。

 小学4年生の時、城間家は家を新築する。新しい家では敏子も一緒に暮らすことになる。そして敏子との間に照光にとって待望の男の子が産まれる。沖縄では長男がすべてを相続するという家族制度が色濃く残っているそうだ。城間家でも男の子が産まれたことによって、敏子との関係でうるさく言っていた親戚も、次第に何も言わなくなっていったという。しかし、美津子は照光を許さなかった。ますます伊佐家に、智子に縋り付くようになる。美津子は智子に拠り所を求めた。しかし真知子を見ていると、自分が伊佐家の娘ではないことがいやでもわかる。
 「わずか十三歳の少女が、誰にも頼らず一人で生きていこうと自らに誓わなければならない選択に、そして、血がつながっていることを恥として受け止めなければならない不幸に、しかし照光も夏子も目を逸らしたままであった」(p.314)

 こうしたことも遠因となったのか、6年生の卒業前に両家は同じ敷地内に住むことになる。伊佐家が城間家の貸し店舗の屋上にプレハブを建て、以後10年間、擬似的大家族のような形態をとる。著者は「壮大な実験工房」と章見出しをつけている。「十五年以上にもわたって大家族のようなまとまりを持ちつづけたのは、宿命ではなかったか」(p.383)とも書いている。
 その理由として――
1.伊佐家も城間家も生活レベルや教育レベルにそれほど大きな差がなかった。多少の違いはあっても家庭環境はよく似ていた。このことはひとつの大家族としてまとまりを容易にさせた。親戚のようなつきあいをしても社会的な違和感がなかったことは、周囲にも、さらに本人たちにも安心感をもたらした。
2.物理的に交流を続けることが不可能な距離ではなかった。
をあげている。(p.383)
 両家族に密着取材してきた著者ならではの見解だろう。

 美津子は大家族的形態の10年間、智子に支えられることによって、精神的に育てられた。不安定ながらも何とかアイデンティティを保ちえたのだろう。
 交換して17年目の両家族の思いは相反するものとなった。「城間たちは交換しなければよかったと語り、伊佐は交換してよかったという」(p.383)

 美津子は高校を卒業すると、自立するために東京で働く。後に「大人になって、真知子に絶対できないのは何だろうと考えたら、ひとりで生活することだったんですね。自分の母ちゃんもそれができなかったから、意地でもひとりで生活できるようになりたかったんです」(p.421)と言っている。2年間だけと、智子は送り出したが、東京で働き続ける。重夫が重症だという智子たちの演出で、美津子も、8年後、沖縄に戻った。沖縄で働きながら、真知子の子どもを我が子のようにかわいがっている。

 「親子というのは、本来『血』と『情』は不可分なものである」(p.399)そうだろうか。無条件に前提されるものだろうか。
 親子の情、家族の絆、これらは最初から当たり前に存在するものではなく、親の子に注ぐ愛情を通して、少しずつ築かれていくのではないか。これは血の繋がりがなくても、存在するものだと思う。

 母親失格の夏子。「甘やかされるだけ甘やかされて育った。大人になれない子どものまま大きくなった」という。5人兄弟の末っ子の私は、夏子に自分自身を重ねてしまう。甘やかされて育ったというのは愛情を注がれたということではない。親は子どもにきちんと向き合わなかったのだろうと思う。放っておいても育つと、親は恣意的におもちゃのように育てたのだと思う。それをチヤホヤ甘やかされたと、みんなして思う。家族のはけ口にされたのだと、我が身を省みてそう思う。
 夏子は、人間としての矜恃がない。自尊感情がない。夏子はどう自分を扱っていいかわからないのだろう。本当は相手に大事にしてもらいたいのに、それが自分でもわからないから度外れたわがまま勝手な行動をとるのだろう。夏子自身が自分の親から規範となる行動を学べなかったのだろう。
 同じ親から産まれた兄弟でも全く違う。親は子どもそれぞれに、微妙に態度を変える。平等に愛情を注げる親のほうが例外なのではないかと思う。それでも大多数の親は、自分は子どもを平等に愛していると思っている。仲のいい兄弟の親だけが子どもを平等に愛したと言えるのだろうと思う。一般的には仲の悪い兄弟のほうが多い、と私は思っている。

 『ねじれた絆』を元にしたテレビドラマ&ドキュメントをネットで観た。当事者たちが登場している。智子に対して、文庫版書き下ろしの新章を読んで、素敵な人だなあと思ったが、テレビで本人が話しているのを聞いて、映画「あなたを抱きしめる日まで」の主人公に対する感じと同じ思いを持った。なぜテレビに出ることにしたのだろうか。気持ちの整理がついたのだろうか。かすかに違和感を覚えた。見られる自分たちを演じてしまう部分はないだろうか。それはそれでいいのかもしれないが。
 とはいえ、取り違えは事実で、子どもを交換したのも事実で、家族の重い葛藤があったのも事実で。本だけを読んでいると素直に感動するのに、テレビに出ている生身の人間たちを見ると、複雑な感情を覚える。

 少女だった二人は40歳。テレビ局の演出なのか、二人の選択なのか、二人の合同結婚式の場面もある。結婚式に夏子が出席しているのがうれしかった。美津子が呼んだのだろうか。父親の照光は体調不良とかで出席していなかったのが、これまたうれしかった。私は照光の夏子に対する態度が許せないのだろう。あんなに照光を拒絶していた美津子も、最後はビデオレターで照光に話しかけていた。長い長い年月をかけて許せるようになったのかもしれない。
 夏子は照光一家と離れて暮らしていたが、また戻るとナレーションが言っていた。生身の夏子に好感を持った。プライドがなさそうなのもよかったと思った。変なプライドがあったら、姉であり、実質的には夫の妻でもある人のいる家には帰れないだろう。夫の家に帰って安定できるのだったら、彼女のためによかったと思う。うれしそうに見えた。それは単に結婚式の席だったからなのか、わからないけれど。
 著者も結婚式の参列者として映っていた。控えめな感じの人だった。物書きにありがちな自己主張の強さみたいなのが感じられなくて、好感が持てた。「親子の絆とはいったい何だろうという悩みは、私自身のテーマでもあった」と書いている。彼も家族、親に対しての葛藤をかかえていたのではないかと想像してみたりする。

                

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