『憎むのでもなく、許すのでもなく』

                       

 

 ボリス・シリュルニク著 林昌宏訳 吉田書店 2014年


 著者は、1937年フランス生まれのユダヤ人で、精神科医。両親は、1942年のユダヤ人一斉検挙で拘束され、アウシュビッツで亡くなる。著者は一斉検挙を察知した母により孤児院に入れられるが、1944年、6歳半でフランスの警察に逮捕される。強制収容所へ移送される直前に逃げ出し、調理場の大鍋の中に隠れ、じゃがいもの袋の中にもぐりこんで運ばれ、戦争が終わるまで田舎の学校に潜んで暮らしていた。
 
 ユダヤ人の子どもを助けてくれたフランス人もいたし、密告した人、追い出した人もいたが、記憶は断片的で、心を閉ざしていたからか、辛いという思いはなかった。  
 戦争が終わって生活が戻ってきてから、喪失感を味わった。自分の経験を信じてくれる人はなく、「心の奥底にある地下礼拝堂」に記憶を閉じ込めた。経済的にどん底のなかで猛勉強をして、パリ大学医学部に入り、精神科医になる。トラウマ研究の権威でもある。
 
 著者自身がこの本を通して、心の奥に凍りついた言葉を語ることにより、とらわれていた過去を「憎むのでもなく、許すのでもなく、理解する」という姿勢にたどりつく。

 トラウマを与えた相手を無理に許さなくてもいいのだと、心が開かれるおもいだった。「心が深く傷ついた者は過去の囚人になり、悲惨なイメージを反芻し、心理的苦痛から逃れられない。憎しみによって自己を守ろうとする。怒ることによって自分を鼓舞する。自分の不幸の原因をつくった人々を攻撃すれば、不幸の感覚は少しは和らぐ」

 しかし、そこから一歩も先に進めない。憎み続けることでは何も解決しない。それでも許すことはできない。許そうと試みても偽善にしか感じられない。堂々巡りのなかで、「憎むのでもなく、許すのでもなく」という言葉が、心を撃った。待ち望んでいた言葉に出会ったような、心の重しを取り払ってくれたような気がした。
 
 相手を理解すること、理解しようと努力すること。それは過去を見るまなざしに新しい視線を導入することでもある。自分を被害者として過去に押さえ込まれてしまう立場から、自分を主体として立ち上げることでもある。ここから新しい一歩を始めることができる。  

「心があまりにもひどく傷ついた者たちは過去の囚人になり、彼らにとって常に現在である過去に悩まされ続けた。心の傷は相変わらず出血がとまらない状態なのである」
 そこから何とか逃れるために将来に夢を託す。
「将来に夢があれば、現状のとらえ方も一変する。つまり夢があれば、苦しみなど気にならなくなるのだ」とも著者は言っている。

 生きるために、トラウマから逃れるために、夢をもつことを、現実逃避だという人たちは、生きていくのが辛くてたまらないほど心が傷ついたことがない人たちなのだろう。

〈抜粋〉
記憶にトラウマがあると、常軌を逸した心を引き裂く思いが過去のイメージを固定させ、思考力を鈍らせる。 ~こうしたトラウマの記憶は対人関係を悪化させる。

心の傷を背負いこみ、押し黙っている人と接するのは、簡単なことではない。彼らは自ら自分を阻害された状況に追い込む。苦しみを心に内包して自分の殻に閉じこもって自分自身を守ってばかりいると、他者と感情を分かち合えなくなる。

新生児期から幼児期にかけて、愛情に恵まれて安心して育った子どもは、心が傷つきにくい。なぜなら、心が傷つきやすい子の心はすでに傷ついており、またその子の周りにいる人々は不幸によって荒廃しているからだ。

 

               

 

 

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