山寺香著 ポプラ社 2017年
2014年3月26日、埼玉県川口市で17歳の少年が祖父母を殺害し、金品を強奪した事件があった。ラジオや新聞でのニュースは記憶に残っている。どういう背景があったのだろうかと気になったが、日常に紛れて忘れてしまった。
朝日新聞の「編集者がつくった本」というコラム(2021年9月1日)で、ポプラ社の吉川健二郎さんが『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著)を紹介されていたのを読んで思い出した。
吉川さんは、毎日新聞記者の山寺香さんの記事を読み、「事実の奥底から真実を浮かび上がらせようとする意思を感じ」、この本は生まれたと書いている。丹念に事件を取材し、裁判を傍聴し、少年と何度も面会を繰り返す。山寺さんは服役中の元少年と現在も真摯に向き合い続けているそうだ。
少年は強盗殺人罪に問われ、母親の指示で祖父母を殺害した、と証言。母親は裁判で否定し、少年は少年院送致ではなく、懲役15年の実刑判決を受けた。
少年の母親は浪費癖があり、ゲームで散財し、働いても長続きしなかった。両親は少年が就学前に別居し、10歳のときに離婚。自分がいないと母親は一人ぼっちになると思って、母親についていくことにした。
母親はホストクラブに通いつめ、名古屋まで追いかけていって1ヶ月近く帰らないこともあった。少年は「捨てられた」と思い、それがトラウマとなって母親から離れられなくなった。母親はそういう少年を支配し、コントロールしていた。母親はそのホストと再婚する。
3人は各地を転々としながら、ラブホテルに泊まり、ホテルの敷地内にテントを張って野宿したりする生活が2年以上続いた。少年は、「居所不明児童」となり、小学5年から学校にも通っていなかった。
少年は、母親と義父から身体的、心理的、性的虐待、ネグレクト(育児放棄)を受け続けた。そんななかで、女の子が産まれる。少年は、乳飲み子の妹の面倒をよくみていたという。16歳のとき、義父が逃げるように去っていくと、少年が働いて生活費を工面していた。
「過酷な境遇で育った少年は、本来は事件前に福祉行政が保護すべき「被害者」だった。少年は、居所不明児童となった後も多くの機関や大人と接点を持っていたにもかかわらず見過ごされ、じわじわと追い詰められて事件を起こし、「加害者」となった」とあるように、著者は、少年を、社会の、そして何より母親の、被害者だとみている。私もそう思う。
著者は、少年に対してはやさしいが、母親に対しては手厳しい。当然と言えば当然だが、私は少年以上に母親こそ救いの手が必要だと思う。母親が救われたら、少年も救われるだろう。しかし、母親にその自覚がなく、救いを男たちに求める限り、母親自身の救いはないだろう。
この事件に着想を得て作られたのが、大森立嗣監督、長澤まさみ主演の「MOTHER マザー」。プロデューサーは河村光庸。
「あの子は私の分身。舐めるようにして育ててきたの。母と少年の歪んだ共生」
「秋子は怪物か、あるいは息子周平にとっては聖母か」
という惹句が躍る。
センチメンタルに流れていないのは評価できるが、母と子の絆みたいなものを示唆して終わっていて、なんだかな~と思う。
少年周平と育った環境が少し似ている福祉施設の職員亜矢は、周平のことを気にかけていた。刑務所に面会に行き、話をする。そして周平の母秋子に「それでもお母さんが好きだ」という周平の言葉を伝える。最後に、秋子の横顔を映し、映画は余韻を含んで終わる。
私の判断はかなり単純明快。余韻も情緒も存在しない。
子どもは虐待する親も心の底では愛しているし、愛してほしいと願っているから、「それでもお母さんが好きだ」というのは、子どもにとって至極当然の言葉だ。それに反して、秋子は自己愛のなかに生きている。秋子のなかに周平の存在はない。ここが、恵まれた境遇で育った人には受け入れがたいだろう。親が子どものことを思わないわけはないと。それでも現実には、親が子どもを虐待して殺す事件は、それほど珍しくはない。
恐らく秋子は、同じことを繰り返して生きていくだろう。そのこと自体が秋子の生い立ち、生育環境など諸々の影響で、秋子こそ精神医療の対象だと思うが、本人が望んでいないなら、現実にはそこに繋がるのはむずかしいだろう。そして次世代に、それは引き継がれるだろう。
『誰もボクを見ていない』の中で、母親の家庭は普通の家庭だった、というような捜査関係者や取材者の証言があったが、家族の状況は、外からははかりがたい。
『母がしんどい』の著者、漫画家・エッセイストの田房永子さんは、「他人がみれば母は善良な市民ですが、私には加害者」(朝日新聞2022年6月29日)と言っている。
母親のなかにあるのは、自己愛のみだと思う。少年が、それに気づくことができれば、自分は愛されているのではないと気づくことができれば、少年は母親に憎しみをもつことができるだろう。自分の過去を、自分の人生を、自分自身を返してくれと母親を責めることができるようになるだろう。
自分は母親に深いところで愛されている。自分がいなければ、母親は一人では生きていけないだろうという幻想を持ちつづける限り、少年は救われないだろう。あるいは、その幻想のなかで生きつづけるほうが、自分の心の中に母親に対する憎しみを噴きださせるよりも、幸せに生きていけるのかもしれない。