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『レイシズムとは何か』

 

             

 

 梁英聖(リャン ヨンソン)著 ちくま新書 2020年

 

 本書は、「日本型反差別から脱却し、差別する権利・自由を否定する反レイシズム規範を日本社会でどのように打ち立てたらよいかという課題と向き合うための基礎となるレイシズムの入門書をめざした」とある。著者は在日コリアン3世で、レイシズムを主に在日コリアンとの関連で分析している。(以下は、本の内容を、かなり恣意的にまとめたものである。)

レイシズムとは何か

 レイシズムとは、「人種差別を引き起こすチカラのこと」=「人種差別という行為を可能にする権力関係」で、「人口にとっての生物学的危険として劣等人種をつくりあげ、社会防衛を掲げてその人種を排除し、最終的には殺そうとする権力である」と定義している。

 先ず歴史から説き起こす。
 19世紀フランスの作家ゴビノーは『人種の不平等』のなかで、「人種は完全に本質的な能力と結びつけられる。白人のみが文明を発展させる能力がある」と説いている。(映画「サーミの血」のなかで、教師が言い放った言葉が思い浮かぶ。「サーミ人の脳は文明に適応できない」)
 チャールズ・ダーウィンは1859年『種の起源』で進化論を主張。ダーウィン自身は、社会に応用して差別に結びつける考えはなかったが、イギリスのハーバード・スペンサーは進化論を社会に適用し、自然淘汰を社会の不平等の正当化や社会の発展と結びつけた。フランシス・ゴルトンは1883年「優生学」を提唱。1933年、ナチスがドイツの政権を取り、「断種法」や、ユダヤ人から公民権を奪い取った「ニュルンベルク法」を制定し、ホロコーストを引き起こす。600万のユダヤ人ジェノサイドが行われた。

レイシズムのピラミッド

 レベル1:偏見       「朝鮮人は反日」と思う
 レベル2:偏見による行為  「朝鮮人は反日」と冗談を言う
 レベル3:差別       住宅、就職差別
 レベル4:暴力       ヘイトクライム/スピーチ 「チマチョゴリ事件」
 レベル5:ジェノサイド   ナチスのホロコースト、関東大震災時の朝鮮人虐殺

  レベル3から5は人種差別撤廃条約で明確に禁止されている。

 著者は「反差別ブレーキ」と「差別アクセル」というわかりやすい言葉を導入する。
 差別を止める効果、とりわけ加害者の差別する自由を規制する効果を「反差別ブレーキ」、逆に、加害者が差別する自由をつくりだし、その自由を行使して差別行為や暴力あるいはジェノサイドを実行させる効果を持つ社会的条件を「差別アクセル」と規定。

 差別アクセルになるのは、①直接の利害関係によるものや、より核心的な②差別扇動によるものがある。①は結婚差別や、グローバル化で衰退する地方の農家が外国人研修生を搾取する例などであり、②は、ヘイトスピーチ、差別行為自体、政治(国家)による差別扇動、極右などがある。

 レイシズムのピラミッドでは、レベルが上がるほどアクセルが強く踏み込まれる。偏見から差別行為への移行には、「特に政治とモラルの面で条件が揃うことが必要」となる。

 「差別は「心の問題」だと思われがちだが、そうではなく、差別はリアルなチカラ関係によって条件づけられている。差別を人間の心の荒廃だと嘆いても世界は絶対に変わらないが、差別を引き起こす権力関係を直視して分析することは世界を変える道を拓く。どんな条件が差別アクセルとなり、どんな条件が反差別ブレーキとなるのかを手堅く分析することで、差別を実際になくしていける道をはじめて拓くことができる」に納得する。

 「差別現象をバラバラに起きる偶発事としてではなく、互いを支えにしあう一連のレイシズム行為の連鎖プロセスとして分析してみる必要がある。要するに差別行為は差別のタネをまき散らす行為でもある。もし責任を取らせるなら、差別した人物には「反省」を求めるよりはるかに、自分がまいた差別のタネを回収し、芽を刈り取る反差別行動をさせたほうがよい。たとえるなら、コップを割った者に破片を片付けさせるのと同じだ。「反省」しても破片を片付けない者は「反省」していないはずだ」(全くそうだ!)

今日の日本のレイシズム現象

 今日の日本のレイシズム現象は戦後最悪で、それまでと異なる21世紀的特質をもつ。かつての朝鮮植民地支配での旧型のレイシズムと連続性を持ちつつも、在特会(在日特権を許さない市民の会)が組織活動をはじめた2000年代後半からはまったく新しいタイプの差別煽動メカニズムが駆動している。

 2000年以前をざっと振り返ると、1960~70年代には国士舘の学生による朝鮮高校生襲撃事件、80年代末~90年代には「普通の人」による「チマチョゴリ切り裂き事件」などがあった。これらは国会とマスコミによる「北朝鮮バッシング」の影響も大きかった。

 2000年代に入ると、2006年「在特会」―政治による差別煽動が生んだ、遊び半分で暴力を組織する日本型極右、自然発生性を伴う草の根極右組織―が結成される。極右の差別煽動は殺人を含む深刻な暴力を実際に生み出す。これはネオナチや白人至上主義の欧米の極右と全く同じである。

 なぜ、公然と行われる在特会のデモや宣伝で、吐き気がするほど醜悪かつ不快で衝撃的なヘイトスピーチが罷り通る世の中になってしまったのだろう。同じ著者の『日本型ヘイトスピーチとは何か』(影書房)では三つの原因に分けて考察している。
 ① 反レイシズム規範の欠如
 ② 「上からの差別煽動」と「在日特権」攻撃
 ③ 歴史否定

 ① 戦後日本社会に反レイシズム規範がゼロだったのは、一つには、植民地支配時代からのレイシズム法制を入管法として引き継いだ1952年体制。二つには、戦後日本社会には欧米とは異なる特殊な企業社会が成立したこと。
 「妻子を養う」日本人世帯主を典型的な労働者モデルとしている日本型雇用システムはさまざまな差別を前提とし、また内包していた。日本型雇用システムを社会規範としてきた企業社会日本では「平等とは何か」という社会規範が実は最初から市場原理に深く浸食されてしまっている。新自由主義の平等に対抗しうる別の平等基準が企業社会に存在しなかった。

 ② 朝鮮高校授業料無償化除外や石原慎太郎東京都知事(当時)の「三国人」発言に代表されるような政治家、政党による差別発言。2000年の石原発言は、国連から人種差別撤廃条約違反だと批判されたが、その後の政治家のヘイトスピーチに「タガが外れた」状況をつくりだした。
「在日特権」デマは、在日コリアンへのレイシズムであるが、このタイプのデマはそれ以外にも、「被ばく者特権」「被災者特権」「被害者特権」などのバリエーションをもつ。これら「○○特権」型バッシングとも言うべき弱者攻撃は、市場での競争以外で得られる福祉や権利を、「不正で」「ズルい」ものとみなす新自由主義に支えられている。
 これに対抗するには、たんにそれがデマであることを指摘するだけでは足りない。在日コリアンには永住権・民族教育権などマイノリティへの正当な権利を認めて当然だ、それが最低の平等だ、という水準で対抗できなければ、「在日特権」デマの強力な差別煽動力に対抗することはできない。

 ③ 歴史否定とは、ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)など、近現代史における奴隷制・植民地支配・侵略戦争・ジェノサイドなどの、とくに深刻な人権侵害を否定・歪曲・美化する行為・思想のこと。ホロコースト否定などの歴史否定は、ドイツをはじめ欧州では明確に刑事罰の対象となる。
 日本では、1990年代にアジアの被害者が侵略の被害を告発するようになってから、日本軍「慰安婦」問題など、歴史否定はエスカレートする。日本でも反レイシズム規範を形成させようと努力されているが、政府は加害の歴史を公的記憶とさせず、教育からも排除し、マスコミも反歴史否定をほとんど報じない。

レイシズムを克服するには

 資本主義とレイシズムの関係について、
 ① レイシズムを途方もなく強化させる
 ② 反レイシズムを骨抜きにする
 ③ 差別によって社会的連帯を壊す

 人間を不平等に扱う差別と、剰余価値の生産を目的とする資本主義的生産様式とは極めて相性がよい。『ブラック・ライブズ・マターから黒人解放へ』で、著者のキアンガ=ヤマッタ・テイラーはミズーリ州ファーガソンの監獄ビジネスについて詳述している。また、新自由主義による平等の簒奪も著しい。

 私たちにとって機会の平等より結果の平等の是正が重要なはずだ。しかし平等を市場原理に簒奪されると、機会の平等だけが平等となり、結果の平等を求めるいかなる取り組みも不正な「差別」「特権」となる。

 1964年、公民権法を成立させたジョンソン大統領は、1965年の演説で、「機会の平等」だけでなく、「結果の平等」の重要性を説いた。
 「長年、鎖に繋がれていた人を解放し、競走のスタートラインに連れていき、「さあ、おまえは自由だ、だれと競走してもよい」などということはできない」
 「足枷をはずすことで「平等の機会」がもどったといえるかもしれない。しかし、40ヤード先に走者がいるのだ。足枷をつけていた走者を40ヤード進ませるのが公正というものではないのか。これが平等に向けてのアファーマティブ・アクションであろう」(上坂昇『アメリカ黒人のジレンマ』明石書店)

 ニクソン政権以後のバックラッシュは、アファーマティブ・アクションを「逆差別」として糾弾する。

 統計上マイノリティが所得や学歴で差別があったとしても、それはレイシズムのせいではなく、平等な市場で競争した結果だと正当化される。この市場の論理とレイシズムが結びつくことで、レイシズムは途方もなく強化される。

 「反レイシズム」とは、基本的には人権規範の形成(反レイシズムというモノサシ、ルールづくり)と、それに照らしたさまざまな対応策(加害者処罰・被害者の人権回復・再発防止の為の教育など)だと言える。つまり、反レイシズムとは、本質的に、レイシズムが起きたときにどうするかという事後策か、最善でも予防策でしかない。本当の課題は、そもそもレイシズムが起きる社会的条件を別のものにおきかえることだ。本来は、レイシズムが必然的に暴力に結びついてしまう近代社会そのものをどうするかという問題に向きあわねばならない。

 レイシズムを克服するには、レイシズムにだけ反対する反レイシズムでは全く足りない。その逆に性、人種、階級などの複数の従属を同時に直接反対しうる、レイシズム、セクシズム、階級差別などを必然にする独特の資本主義の差別システムを変革するような反レイシズムでなければならない。
 複数の従属を別の言い方で、インターセクショナリティといい、「個人のアイデンティティが複数組み合わさることによって起こる特有の差別や抑圧を理解するための枠組みである。人種やジェンダーなどの複数の社会的、政治的アイデンティティの組み合わせにより、人々が経験する不公平さや有利さを識別するために使われる。20世紀後半にフェミニズム理論として提唱された。」(ウィキペディア)

 ブラック・ライブズ・マターはインターセクショナリティを克服することと資本主義との闘いとを一体化して反レイシズム/反セクシズムを闘っている。これは極めて普遍的な闘争であり、従来の世界の反レイシズム運動や理論を塗り替えるいくつもの画期的な側面をもつ。

 

≪雑感≫
 チマチョゴリ姿は、かつては街中で日常的によく見かける風景だったが、今ではまったく見かけない。朝鮮の人たちから日本でチマチョゴリを着る自由を、私たちは奪ってしまったのだ。それは、日本の中で、好きなものを選び、自由に生きる権利を奪っているのと同じことで、私たち自身も気がつかないだけで、自由を奪われているのと同じだ。
 こうやって、ただ書くだけなら簡単にできる……

 昨年、マスクがなかなか手に入らなかったとき、中国人が買い占めているからだと言う人がいた。私と同じ年くらいの高齢者の女性で、穏やかな感じのいい人だったので、心底驚いた。それに対する私の反応はひどいものだった。驚きながら、それはネット上のデマだよ。仮にあったとしても、日本人だってやってると思うよ。などと、頭の中では思っているのに、私の口から出た言葉は、「そうなんだ」…… 自己嫌悪に陥る。いつも、このパターン。自分が思っていることをはっきり言えない。それによって、差別を下支えしている自分がいる。そして、私のとる選択は、人と付き合わないという選択。救いがないなどと言ってる場合ではないのだが。
 せめて反レイシズムの本を丁寧に紹介したかった。自己満足にすぎないが。

 

              

 

 

 

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