高橋たか子著 集英社文庫 1982年
連作短編集。「ロンリー・ウーマン」、タイトルに惹かれる。
それぞれ独立した、五つの短編がまとまって、一つの世界を構築している。ある短編の端役が次の短編では主人公になっている。もう若くはない年齢から老齢までの女性が主人公で、皆、内面に孤独を抱えもっている。「持続する一人居というものはしらずしらずのうちに人を狂わせるのかもしれない」とあるように、それぞれが狂気を孕んでいる。
「ロンリー・ウーマン」の主人公、山川咲子は小学校の連続放火事件で気持ちを昂ぶらせる。「炎上する体育館のなかですし詰めになって焼かれている幼児たちの光景」を、思い描いたりする。そして、自分が犯人だと言わんばかりに、刑事に接する。
隣家の一人暮らしの老婆は上品なたたずまいに似ず、上ずった、たたみかけるような話し方をする。「その姿の内部に、なにか自分で抱えきれないほどの感情がとぐろを巻いているのが思われてしまう」
老婆は鳥を飼っているが、最近飼いはじめた九官鳥が「火をつけたのは私ですよ。火をつけたのは私ですよ」といっている。
咲子は、「私一人だけでなく、隣りの婆さんまで狂いだした」と思う。
「お告げ」は、交通事故で夫を亡くし、三年間の砂糖菓子のような甘い結婚生活が突然終わりを告げた燿子が主人公。「ロンリー・ウーマン」の老婆は義母に当たる。
燿子は亡夫の夢をよくみるようになった。彼の生存中には一度も見たことのない陰気な顔を自分に向け、夫の姉の春代と官能的な、眩しいような雰囲気に包まれている。何度か二人の夢をみ、春代に会わずにはいられなくなる。
義母の家で会ったとき、春代は、母が鳥を全部殺していると話す。父が次から次へと女をつくったから、鳥にその女の名前をつけて殺したのだと、そして、いまでも次から次へと殺していると言う。
燿子はまた夢をみる。夫と知らない女と、男の子の一家団欒の光景。その女がデパートのネクタイ売場の店員だったと思いだし、デパートまで会いに出かける。名前はわかったが、会えなかった。
次にみた夢は、女子大時代の級友が夫に歓びに満ちた笑みをむけていた。既定のことのように会いに行き、途中の電柱に喪中の貼札を見る。亡くなったのは級友だった。
偶然春代と会い、最初の夢のことを思い出す。それは、高校時代、恋人を級友に取られてしまい、悶え苦しんだ痛手だった。
燿子はおうむを買った。「もう夢をみなくなるわ。ほんとうにお義母さまはいいことを教えてくださった」と思う。
「狐火」は、燿子が尋ねていったデパートの店員、伊知子が主人公。名も顔も失った群衆が自分めがけて雪崩れこんでくるという幻想に苛まれている。あの人だと指名する恐ろしい誰かに気づかれないよう、そっと息を殺して歩くようになった。
そんな時、ペンダントを巧みに万引する女の子に出会う。追っていくと、栗色のカツラも試着後そのまま着けて歩きだす。保安係と保安室に連れて行く。盗品であるしるしとなる値段表示のラベルは取り去られていた。女の子は吉村るりこと名乗る。
伊知子は女の子を家まで送っていくことになる。「ほんとうに子供なんて何をたくらみはじめるかわかったものでない。頭のなかを特殊な顕微鏡で見てみたら、ナメクジやヤモリが見えるのかもしれない」と思ったりする。女の子は、郊外のマンモス団地の、吉村という表札のある鍵のかかっていない部屋に入っていく。
伊知子は、ウイークデーの公休日、スーパーでけたたましい幼児を連れた親子三人連れに出会う。女は妊婦らしかった。「人間でないものを孕んでる」と思い、そのせいか、吉村るりこの親を見てみたい気になって、マンモス団地に出かける。女の子が入っていった部屋には老婆が住んでいて、自分は独り者で、るりこという子供は聞いたことがないと言う。
「吊橋」は、「お告げ」の主人公燿子の義理の姉、春代が主人公。
どうにもこうにも自分の存在が溶解していきそうな危なさをもち、自分が吊橋のまん中に立ち、青い空を見あげている。足下には熱い奈落がある。そんな吊橋の夢を、春代は子供の頃から時折みていた。
大学時代の級友に13年ぶりにバッタリ会って、当時の恋人の消息を聞いたとき、吊橋の夢のことを思い出していた。夕食を待っている子供たちのために一刻も早く帰宅しようと歩いていた自分の内部から、別な自分がぬうっと出てきたのを感じ、ひどく不安定になった。かつての恋人との関係、パッションとしか名づけようのないものが疼く。暴力のように過去が現在に侵入してくる。
夫は、実際的な神経がその体内に張りめぐらされているような人で、自分がここに在るということの中身を考えてもみない人。春代の突然の変貌にも気がつかない。夫は、眼に見えるものだけが確かなものだと言う。「見えないものを摑もうとすると際限がないものだよ。見えるものだけで、おさめておく。おさめておくんだ。それが知慧というものだろ」
しかし春代は、「見えるものの内部に見えないものを摑もうと躍起になる時、人は本当らしさにしか出会わなくて、見えるものだけで済ませておく時、本当を摑んだと思うのかもしれない。とはいっても、夫に感じられる本当というものも、革張りの椅子の本当というものと同じくらいのことなのかもしれない」と思う。
ある日曜の朝食後、食卓に拡げられていた新聞に、エリート官僚である元恋人の自殺の記事が載っていた。春代は動揺しながら、支離滅裂に架空の話として、夫に話しつづける。夫は、自殺した男のところへ行こう、車はぼくが運転するから、と言って、行動に移す。
「不思議な縁」主人公の吉村るりこは、長い長い間一人で歩き続けてきた。夫と息子は戦争に駆り出され、満州から引揚げてきた時、普通の女には想像できないような長い距離を歩いた。あの時も一人だった。
住んでいるマンモス団地のなかを歩いていると、「るりこさん、るりこさん」と汚い女の子が呼ぶ。「老婆にむけてるりこさんなどと呼ぶこと自体、どこか子供にしては頭のはたらきが二重によじれている」と思う。何処で名前を知ったのかと問い詰めると、遺族者の名簿を見たと言う。母親の母親くらいの年の人が遺族なのか。それは、こんな晴れやかな世の中に、黴の生えたような言葉である。女の子の名前を聞くと、「吉村るりこ」と言う。
敗戦直後、関釜連絡船の乗船を待つ間、41歳の吉村るりこは羽岡唯蔵という男の旅行カバンを預かり、次の朝、カバンはなくなっていた。男が戻ってきた時、「あ。─」と、動物的な声をたてた。内臓が一瞬だけ絞られたような、慟哭が凝結したような音だった。「すみません」と謝ったところで償いようのないこととわかりながら繰り返す吉村るりこに対して、「いいんです。私は何も持っていなかったのですから、結局のところ。これで」と、男は言い、奇妙に明るくなっていった。男の名前と住所をしつこく訊き、それ以後、その男を捜すことが吉村るりこの大事な仕事となった。「私は何も持っていなかったのですから、結局のところ。これでいいのです」と男が言った言葉が、自分のなかで生き始めていた。
吉村るりこは、たがいにぬらりくらりと話を交わすのに恰好の相手である女友達を病院に見舞う。ぶらぶら歩いていると、「三階のハオカさん、あのじいさんよ」という声を聞く。そして羽岡唯蔵という名札を確認する。償いの色をした花をもって訪ねようと思う。生を逆もどりして自分を何もかも帳消しにする以外、生などというものは本当は償いようもないと思いながら。
その時、サイレンの音とともに救急車が到着し、ストレッチャーが吉村るりこの前を通っていく。ストレッチャーが段差で傾き、ハンドバッグがころがり落ちて中身があふれ出る。看護婦がるりこに、「あ、あなた、それ、拾ってください」と命令口調で言う。落ちていた中身をハンドバッグに入れようとして、遺書と書かれた便箋に気がつく。山川咲子とある。
その遺書には、「私は何も持っていなかったのですから、結局のところ。これでいいのです」と書かれていたと、吉村るりこは夢想する。
著者高橋たか子(1932~2013)は、1960年代後半から1970年代にかけて一部の若者たちに熱狂的に支持された高橋和巳の妻。二人は資質が全く違うが、二人とも好きだ。
高橋たか子はカトリックの洗礼を受け、フランスの修道院で長く暮らした。松本徹は解説で、「徹底した孤立状態へと自分を絶えず追い込むのも、じつはそこが、彼女にとっての創造の場であるからである。あらゆるものを自分からそぎ落し、内面を裸にしてゆく。そうして初めて、人間存在が抱え込んでいる、危険な豊饒さを露わにするのだ。作品は、そこから紡ぎ出されるのである」と書いている。
高橋たか子の小説にでてくる主人公は、いずれも孤独を抱え、弱さや自堕落を忌避し、屹立している感じがある。著者自身にもそういった雰囲気を感じる。弱さと自堕落の固まりである私は、感情移入できないところもあるが、それでもかっこいい女たちだと思う。